内田春樹

いつも内田樹のBLOGは楽しみにしていて、内田本を買ったりもしているんだけど、珍しく腑に落ちないエントリーだったので、それについて。「文学の世界性とは何か」という題で村上春樹への批判に対する擁護をする内容だった。

これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、世界中の人を引きつける。しかし、日本近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
インドの大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。サリンジャー以降のアメリカの都会派小説の流れの中にあるんでしょうね。前の短編集『神の子どもたちはみな踊る』には謎めいたところを作っていたが、今回はそういうところはほとんどない。
言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土地も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。

という新聞の書評に対して内田さんは

「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」に絡め取られることは、それほど文学にとって死活的な条件なのだろうか。
「私は日本人以外の読者を惹きつけることを望まない」とか「異国人の大学院生に『違和感がない』などと言われたくない」と思っている作家がいるのだろうか。

と反論している。
あらかじめ言っておくと、僕はそもそも村上春樹が得意ではない。読み始めても1〜2ページで止めてしまうことが殆どであって、読了できたのが「ノルウェイの森」と「海辺のカフカ」だけなのだけど、それとて読み終えてみて、「スタイルが整っているのは分かったけど、それで結局何が言いたかったの?」といった感想しか浮かばず、「詐欺にあったような」という批判に共感できてしまうのである。外装はきちんとしているけど、中身に鉄筋が足りていないマンション、といったら例えが悪意に過ぎるだろうか。ともかく夏目漱石にしろ、現代の大江健三郎だって小説の中でテーマが必ずある。そしてそれは少なからず他の作家からの影響を受けるはずであってそれを「土地に根ざしたしがらみ」とこの批評家は呼んでいるように思う。そして少なくとも僕や、多分その批評家も、テーマ自体を村上春樹の小説から読み取ることができなかった。しかし内田樹はその「土地に根ざしたしがらみ」というのを「日本人評論家にウケル」あるいは「日本伝統的な小説フォーマットを踏襲した」というような狭い意味で解釈しているように感じた。

それにしても内田樹村上春樹の小説に「テーマ」が見えているのだろうか。だとすれば、僕には見えないモノを内田樹村上春樹の読者は見ているわけである。逆に、内田樹たちは村上春樹の小説に「テーマ」そのものを求めていないのだろうか。だとすればそもそも求めるものが違うのであり、どちらにしろ意見は合わないのかもしれない。



<蛇足>内田さんは以下のようなロジックを展開しているのだが

例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?

世田谷と目黒は同じ日本語圏であるが、インドと日本は言語が違う。